
東大久保富士(新宿区新宿6-21-1)
東京メトロ及び都営地下鉄の東新宿駅で新宿イーストサイドスクエア側の出口から出て地下の道を進むと、そのまま西向天神社に向かえます。




西向天神社の鳥居をくぐり参道を登ると拝殿が正面に見えます。ここは江戸時代に「大窪天満宮」や「なつめ天神」と呼ばれて江戸名所図会にも北東側にある大聖院とともに有名だったところのようです。この日も新宿七福神巡りをされている団体さんとすれ違いました。なお、西向天というのは、社が西を向いているからだそうだが、西の太宰府を向いているということらしい。


拝殿の南側に少し上がったところに広場があり、その端の柵の先に富士塚がありました。ここに見えるのは黒ボクに覆われた塚で2m程度でしょうか。

向かって左側には大正14(1925)年6月の「再築紀念」の碑が建っています。関東大震災で被害を受けたための再築だったのでしょうか。「富士山廿六夜講社」とありますが、月待講の名前をつけた富士講だったのかも知れません。富士山の須走口にも「廿六夜月待塔」が建てられているらしいので、そういう習わしがあったのかも。でも、上に丸に谷の文字の丸谷講の講紋があります。市ヶ谷と書いてあるもの、四谷谷町とかいてあるものがありますが、音羽富士にも小日向の丸谷講があった気がするので、いくつか丸谷講があり、その一つなのでしょう。


ちょっとした登山道があって、その頂上には「日之尊」という石碑があります。天照大神のことでしょうか。珍しい気がします。

登山道の左側には「當所発願人」の碑が埋められています。

また近くには「藤壹本」という再築の際の記念碑もありました。

さらに丸谷講の同行記念碑もありました。ただ、ここには「西大久保 先達」「弘化二(1845)年乙巳」と記されているので、江戸時代から続く講のものなのかも知れません。


この塚の向かって右側(北側)には柵越しに見える廿六夜講とも刻まれた丸谷講の大正14年の講碑もあります。再築にかなりの思い入れがあったことがうかがわれます。

ここから下を望むとこんな風に見えます。台地の西側斜面を利用したものらしいことが想像できます。


神社の下の鳥居から右にいったところは少し高くなっており、そこにこのような「淺間神社」と刻まれた石碑があります。やはりこの斜面全体が富士塚なのでしょう。

その石碑の後ろには黒ボクで覆われた胎内らしきものがあります。




その南側には合目碑があります。一合目は柵が近くて隙間からの撮影なので見にくくなっています。また二合目はほとんど埋まっているので最初見過ごしてしまいました。こうくれば「四合目」もあったと思われるのですが、見つけられませんでした。ただ、ここまではほぼ水平に南に並んでいます。再築時のもののようですが、ここまでは距離だけでもうけたのかも知れません。

五合目碑の南側に「黒ボク奉納」の碑がありました。弘化年号なので、江戸時代に持って帰ってきたときのものでしょうか。


この碑の上部には登山道が続いています。途中には七合目の碑もあります。下からでは六号目は見つかりませんでした。


下から望むと10m近くある大きな富士塚のようです。先ほどの「日之尊」の石碑の裏側が頂上に見えます。

途中には小御嶽大権現の石碑があります。大天狗、小天狗の文字も刻まれ、さらに右側には丸谷講の講紋があります。ここに牛込の文字が見えるので、市ヶ谷の丸谷講と言われるのでしょう。


他にも講碑らしきものがいくつか見てとれます。こちらにも廿六夜講で牛込の文字があります。ただ弘化 3(1846)年のものと前のものと1年違っています。

こちらには丸谷講だけれど四谷の文字があります。共通の名称の複数の講によるものなのでしょうか。

西向天神社の脇の階段のところからもこの富士塚が望めます。


脇にも講碑らしきものが見えます。うっすら文字が見えるのですが、望遠で撮っても文字を判読できませんでした。

その間に頂上への登山道があるようです。

階段の南側は新宿中学校(下の門のところ)と隣接していて、このように臨むことができます。
ここは7月1日の山開きの日には登れたことがあると聞きましたので、いつか訪れてみたいと思いました。
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2019年 2月 11日
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